生活や環境を整えることで、病気や健康に関係する遺伝子のスイッチのオン/オフをコントロールできるかもしれない──。いま、世界では予想をはるかに超える遺伝子研究が進んでいます。
その最先端を紹介しているのが、山中伸弥教授(京都大学iPS細胞研究所所長)とタモリが案内役となり、人間のカラダをめぐるドキュメンタリー番組「NHKスペシャル人体Ⅱ 遺伝子」です。本稿では、前回にひき続き、番組のチーフプロデューサーを務める浅井健博さんに、遺伝子にまつわる興味深い話を聞きました。
平井孝幸(筆者):これまでDNA内の2%程度の「遺伝子」と言われる部分だけが、私たちのカラダの要素を決めるとされ、残りの98%はゴミと考えられてきました。ところが、近年、その98%の部分に、新たな未来や希望のようなものが詰まっているというのが、前回のお話でした。ただ、それは、あくまで可能性の話で、私たちがいま直面している健康問題とは、なかなか結びつきにくい感じもします。
浅井健博:前回お伝えしたのは、私たちのカラダの中にとんでもない可能性が眠っているということです。私たち自身の健康に直結するという意味では、これからお話しする内容のほうがより重要です。このところ、残された2%の「遺伝子」と言われている部分でも、未知の要素の解明が進んでいます。それが「エピジェネティクス」です。
平井:初めて聞きました。一体、どういうものなのでしょう?
浅井:疾患になりやすさは、遺伝子によってある程度規定されていて、その情報は生まれた時からは変えることはできません。しかし、遺伝子にはスイッチのような仕組みがあって、それがオンになったり、オフになったりすることで、遺伝子の働き自体が、ガラリと変わるのです。
同じ遺伝子を持っている一卵性双生児を対象とした研究があるのですが、生まれ持った遺伝子が原因でがんになる可能性はわずか8%なのです。残りの92%に関しては、育った環境だとか、生活習慣の違いだという説明だけで、これまでは済まされていましたが、実は遺伝子のスイッチの切り替わりが深く関係していると考えられ始めています。
どんな生活習慣によってこのスイッチが切り替わるのか、薬によって切り替えられるのではないかといった研究が、世界中で始まっています。この話の希望のあるところは、もともとある遺伝子の能力をなんとか役に立てようとしている部分と言えるかもしれません。
平井:SFの話のようです。まるで遺伝子が変化するような錯覚に陥りますね。
浅井:もちろん、生まれ持った遺伝子そのものは変えられません。しかし、遺伝子のオン/オフは操作できるのではということです。簡単に言えば、こういったことを研究する学術分野がエピジェネティクスと呼ばれるものなのです。
「続けることで変わるかもしれない」という希望
平井:遺伝子の働きが変えられると、すごく可能性が広がりそうですね。
浅井:とにかく最先端科学の世界なので、今後どう進展していくのかはわかりませんが、現在、さまざまな研究がされています。なかでも、最も進んでいるのが、「がん」に関する研究です。ジョンズ・ホプキンズ大学の教授であるスティーブン・ベイリン氏を取材した際に行き当たったテーマなのですが、遺伝子のスイッチを切り替えることで、「がん細胞の増殖を止める」という試みがなされています。
遺伝子の中にはがん細胞の増殖を抑えたり、がん細胞にならないように調整したりしているものがあります。一部のがん患者さんは、その機能を持つ遺伝子がオフになっているがゆえに、罹患されているケースがあるそうです。そこに対してアプローチを行なっている研究を、番組でも取り上げています。
平井:この話はがんに限らず、自身の健康の話にもつながってくるかもしれない。いままで治せないと思っていたものが、自分の力で治せるようになるかもしれないということですよね。どうすれば、その遺伝子のスイッチのオン/オフをコントロールできるようになるのでしょうか?
浅井:それには、まだもう少し時間がかかります。ただ、そんなとんでもない仕組みが自分自身の中にあると知れば、ワクワクしますよね。環境要因によってスイッチが切り替わる可能性があるわけですから。
平井:確かにそうですね。それが明らかになればなるほど、遺伝子に合わせた健康提案などもできるようになるわけですね。
浅井:もちろん、そうしたことも将来は可能になるかもしれません。ただ、そもそものメカニズムとして、遺伝子のスイッチは、変わりやすいものから変わりにくいものまで千差万別ですし、複数の遺伝子のスイッチが関係していたりして、実に複雑怪奇な構造になっています。しかも、遺伝子以外の98%の部分など、DNA全ての働きがわかっているわけでもありません。全体像を知るためにはまだまだ長い年月がかかると思います。
とはいえ、いま、その仕組みに気づき、全容の解明に乗り出そうとしている。研究者の方々の探究心と胆力はすさまじいと思います。研究者の多くは、この研究は慎重に進めていくべきだと考えています。生命倫理とも深く関わるテーマですしね。
ある研究者は、「遺伝子を不用意に扱った結果、遠い将来に人類が滅びてしまうようなことになってはいけない」、と強く警鐘を鳴らしています。直近の利益と遥か先の可能性、その両方に対して、目配せしていかなければならないのだと思います。
平井:今回、「人体Ⅱ 遺伝子」という番組をつくるなかで、浅井さん自身、変わられた部分はありましたか?
浅井:細かい変化ではないのですが、気持ちが変わりましたね。とにかく、前向きになりました。今日努力することが、何かしら新しい次に繋がるっていう仕組みが、カラダの中に内在されているというのは大きいですね。それを思うと、自分はまだまだ変化していけるし、丁寧に前向きに取り組めば、そのことがちゃんと反映されて、人生なり健康なりを構築していける。すべてが、あらかじめ決定づけられているわけではないということがわかったわけですから。
平井:確かにそうですね。健康的な行動を続けることで、確かに変わっていけるという実感は本当に大切なものです。僕自身、これまで続けている「健康につながる活動」を、もっと丁寧に続けていこうと思います。
浅井健博◎1994年、NHK入局。大型企画開発センター チーフ・プロデューサー。専門は科学ドキュメンタリーの制作で、主にNHKスペシャルを担当。これまで「足元の小宇宙」「腸内フローラ」「新島誕生西之島」「ママたちが非常事態」などの番組を制作。放送文化基金賞、科学技術映像祭、科学放送高柳賞等を受賞。「シリーズ 人体Ⅱ 遺伝子」の制作統括。