人生は時にすごろくに似ている。振ったサイコロの目はコントロールできない。勝負の世界では、結果と努力してきた量とは必ずしも一致しない。勝つのか負けるのか――。結果だけが求められる「ガチンコの世界」だ。
そんな厳しい勝負の世界をしたたかに生き抜いている女性がいる。欧米や中東など世界の競技人口は3億人ともいわれている人気ゲーム「バックギャモン」で2度の世界チャンピオンに輝いた矢澤亜希子さん(38歳)だ。矢澤さんはアジア人女性として初めてバックギャモンの世界一になり、昨年はその年のMVPに当たる「インターナショナル・プレイヤー・オブ・ジ・イヤー」にも選ばれた。
その道のりは非常に険しかった。プロとして活躍中に「ステージIIIc」の子宮体がんが判明。医師に「手術しなければ1年もたない」と余命を宣告された。結婚して子どもを産む――。女性として描いていた将来の夢はついえることになる。悩んだ末に子宮、卵巣、卵管、リンパ節を切除。その後、抗がん剤投与を受けながら、医師の反対を押し切り2013年冬に単身渡米。武者修行の末に14年、アジア人女性初のバックギャモン世界一に輝いたのだ。
矢澤さんを突き動かすものは何なのか。生死のはざまで何を学んだのか。その舞台裏に迫る。
●賞金総額1億円の大会もあるバックギャモン
バックギャモンは「西洋すごろく」ともいわれている。自分のコマをいかに早くゴールさせるかを競うゲームだ。2個のサイコロを振り、出た目に従って自分の15個のコマを動かしていくが、その中で相手の進行を妨害することもできる。だから偶然の要素が勝負の決め手となる一般的な「すごろく」とは違い、自分と相手の次の手を読まなければならない戦略的なゲームだ。運だけではなく、実力が物をいう。
日本ではそれほど知られていないものの、世界的にはチェス、トランプ、ドミノと並び世界4大ゲームといわれていて、賞金総額が1億円を超える大会もあるのだ。
矢澤さんとバックギャモンとの出会いは明治学院大学法学部に在籍していた01年にさかのぼる。3年生のときに旅行先のエジプトで街中のカフェに入ると、必ず不思議なボードが1台ずつ置いてあった。ボードを取り囲み、男たちが夢中でゲームに興じている。それがバックギャモンだった。「こんなに国民に浸透し、広く親しまれているのか」と思ったが、そのときは、プレイ自体はしなかった。
帰国後、ルールを調べてネット上で遊んでみた。購入したWindowsのPCにはバックギャモンのゲームソフトが入っていたのだ。周りでやっている人がいなかったので、ネットで上級者の試合を観戦した。
「勝率の高いプレイヤーの対戦をひたすら見て研究していました。どういう動きをしているのかを参考にしていたのです。でも、『本当にそれが正しいのか』が分からない。だから正解の手が分かる4万円の解析ソフトを買ったのです」(矢澤さん)
●「AIこそが世界最強の先生」
4万円という金額は大学生にとっては安い金額ではない。それでも答えが分からなくてうずうずしている状態はストレスだった。
「普段は高いものは買いませんが、買う価値のあるものにはお金を使うことにしています。AIを使えば、何が正解なのかが分かります。昔の人は正解が分からない中、手探りでやっていたので強くなるまでに、とても時間がかかりました。今はAIを使いこなせれば、始めたばかりの人でもすぐに強くなることができるので、AIは『世界最強の先生』だと思っています」
こうして見る見るうちに強くなっていった。03年には、実際に人と対戦できる東京・新宿の店に出かけた。そこで後に日本人初の世界チャンピオンになる望月正行さんと出会う。実際にプレイしてみると、なんと第1戦目で望月さんに勝ってしまった。すると望月さんから「センスがありますね。僕が教えている東京大学のバックギャモン研究会に一度来ませんか」と誘われるようになる。
会に顔を出してみると東大医学部卒で11年に世界チャンピオンになる鈴木琢光さんや、後に日本将棋連盟七段の片上大輔さん、12年にポーカー世界チャンピオンになる木原直哉さんがいた。研究会で学びながら、矢澤さんはバックギャモンの戦略性や奥深さを知る。
半年後にはラスベガスの大会で初級に出場し、結果は準優勝。この悔しさから、本格的にのめり込み、始めてから約1年で日本タイトルを獲得した。試合は海外で実施されるため、飛行機代、宿泊費、大会参加費は自腹だ。だから大学4年生のときから任天堂のショールームで契約社員として働いた。
海外の大会に出るには、日程調整が効く仕事を選ぶ必要があったからだ。ショールームでの仕事は6~7日くらいは連続勤務ができたので、融通が利いた。任天堂はボードゲームやアナログゲームを開発していたこともあり、矢澤さんの活動に理解を示してくれたのだった。
●原因不明の体調不良 「子宮体がん判明」まで3年余り
09年に結婚した。だが08年ころから痛み止めを飲まないと歩けないほど、体調不良が続いていた。「良くなるまで休もう」と仕事もバックギャモンも止めた。今思えばこのころから子宮体がんだったのだが、何度診察をしても見つからず、一向に回復しない。
そんな中、研究会仲間で医師の鈴木琢光さんが11年に世界チャンピオンになった。医師の激務と両立させつつ、達成した仲間の偉業。この時、「体調不良を理由に何もしないわけにはいかない。待っていたら何もできなくなる」と思い、競技に戻る決心をした。
その矢先の12年、余命1年の子宮体がんであることが発覚。医師からは「手術しなければ1年もたない」と言われた。「家族に何て伝えよう」。それまで続いていた体調不良から、どんな診断が出るかは何となく想像はしていた。自分で調べたがんの症状と、自分の症状が似ていたからだ。母親には言いにくいし、夫には「本当に申し訳ない」。女性として描いていた将来の夢はついえることになった。
しかし、一度自分で決めたバックギャモンだけはやり遂げたい。悩んだ末に子宮、卵巣、卵管、リンパ節を切除した。その後も体調は最悪だったが、闘病を続けながら大会にも出続けるという生活を始めた。治療のせいでホルモンバランスが崩れ、抗がん剤の副作用もあり、まともな思考が出来ない。髪の毛も抜け、吐き気や痛みもひどい。それでも結果を出し続け、抗がん剤治療を13年の9月に終えた。
「治療に失敗して、死ぬことも覚悟しました。医師には反対されましたが、米国で武者修行にも挑みました。『命の期限』を自分の中で意識したときに、バックギャモンで世界チャンピオンになって『生きた証を残したい』と思ったのです」
ニューヨークのタイムズスクエア近くの公園で対戦をしたり、ロサンゼルスやサンフランシスコのバックギャモンクラブの道場破りをしたりして、経験を積んだ。そしてついに14年のモンテカルロの世界選手権でアジア人女性として初めて優勝し、賞金650万円を獲得した。決勝戦は1試合8時間近くかかる過酷な状況だった。副作用で髪が抜け、ウィッグを着けながら「世界」を獲ったのだ。
●「ラストチャンスかもしれない」
がんの治療中だった世界大会を、矢澤さんはこう振り返る。
「体の痛みより、何もできない心の痛みの方が辛かったし、治療をしても助からない可能性がありましたから、その年がラストチャンスかもしれないと思いました。決勝戦では追い込まれ、自分の病気と試合の状況が重なったような気がしました。だから勝った瞬間はこれまで苦しかった思いが報われたような気がしたのです」
そして闘病の中で学んだことも教えてくれた。
「病気になってあらためて思いましたが、たくさんお金を残してもあまり意味がないと気付きました。派手な生活がしたいと思ったこともありません。家族のためといっても、夫も働いていますし、私には子どもはいません。将来生むこともできません。老後が本当にあるかどうかも分からない。だったら自分のやりたいことをするのが一番です。現在の自分に投資することが将来につながると思っています」
確かに、若いときに旅行に行った記憶が将来によい影響を与えることもある。振り返れば、矢澤さんは大学時代に偶然赴いたエジプトの地で、バックギャモンと出会った。そして高額なソフトを買い、実力を付けたことによって東大の研究会に誘われることにもなり、後の世界制覇にもつながった。つまり過去の選択が全て現在の栄光につながっているのだ。
サイコロの目がたとえ悪い結果をもたらしたとしても、矢澤さんは常に自分の最善の手を考え続け、人生を選択してきたのだ。矢澤さんは言う。「努力しても報われないことはたくさんありますが、自分の選択で最善の道を選ぶことができるのです」。
●勝率1%でも諦めない
「泣いてる時間を努力に変えよう」。バックギャモンに人生をかけてきた矢澤さんの言葉には重みがある。がんは5年何もなければ一般的に「完治した」といわれるが、治療のかいもあり、再発の可能性はほぼなくなった。今は平均で月1回は海外に出かけ、大会に参加する。18年8月には、モナコの世界選手権で4年ぶり2度目の世界チャンピオンになった。複数回の優勝を達成したのは過去3人だけだ。矢澤さんは前を見続ける。
「勝率1%でも諦めない。これがモットーです。実際に1%の状況から勝ったことが何度もあります。大切なのは、諦めずに勝つ準備をすること。自分でその確率を起こすための努力をしないと、その状況は訪れません。偶然チャンスがやってきたとしても、勝てる体制ができていないとモノにできません。いつでも『不屈』の志を持っていたいと思っています」