世界遺産で見る、宗教で栄えた国・滅びた国 神とカネによる王朝の興亡を読み解く!
東洋経済オンライン
宇山 卓栄
2 時間前
28.02.21.
なぜ巨大ピラミッドは作られたのだろうか?(写真:tamaki / PIXTA)© 東洋経済オンライン
世界各地の世界遺産。「なぜ、この時代に、このようなものを作ったのか?」 われわれはそのスケールに圧倒されるとともに、遥かな時空の彼方に誘なわれます。
それら遺跡は、当時の政治や権力者たちの事情以上に「宗教」と「経済」が密接に絡み合い時代を動かす「象徴」でもありました。
『経済を読み解くための宗教史』(KADOKAWA)の著者で、予備校世界史科講師・宇山卓栄氏から、世界の観光地としても名高いエジプトのピラミッド、カンボジアのアンコール遺跡、中国の紫禁城にまつわる歴史の新事実について教えてもらいましょう。
①ピラミッド ~精神とカネの豊かさを与える
エジプトのカイロ郊外にあるギザの三大ピラミッドとスフィンクスは、数ある世界遺産の中でも、最も古く、最も謎に包まれた遺跡です。ピラミッドは、紀元前2500年代頃に、クフ王をはじめ、三人の王によって、それぞれ、20年かけて建設されました。
3つのピラミッドのうち、最大のピラミッドであるクフ王のピラミッドは底辺の一辺が約230m、高さ約137m(40階建ての高層ビルに相当)。平均2.5tの石を230万個積み上げ、10万人を、20年間、使役させたと言われています。
今から、4500年以上も前に、なぜ、巨大ピラミッドは作られたのでしょうか。
紀元前2500年代、気候に恵まれ、収穫が上がり、王朝は栄えました。しかし、食糧資源の余剰は、民衆の隅々にまで行き渡ることなく、豪族や地主など富裕層のみが独占していました。富の偏りは、王などの為政者にとって、頭の痛い問題でした。格差を放置しておくと、困窮した民衆が反乱を起こす可能性があるからです。
そこで、ピラミッド建設という政策が採られます。図のように、富裕層は、年貢とは別に、貯め込んだ余剰穀物を王に寄進します。その見返りに、王に土地所有を保証させ、新たな領地を併合していきます。
王は、富裕層から余剰穀物を得て、それを貧困層に支給します。そして、貧困層をピラミッド建設に従事させます。
ピラミッドのような巨大建造物は王の威信を強めました。王の威信にあやかり、土地を得ようとする富裕層が、進んで余剰穀物を王に寄進するようになります。
ピラミッド建設を中核とする、余剰穀物を循環させる経済システムが富の偏りを防ぎ、貧困層を底上げすることに貢献しました。古代エジプトにおいて、貨幣経済は未だ、定着していませんでした。マネーの代わりに、穀物が経済循環を促進する媒介機能を担っていました。
豊作が続いたエジプトでは、カネ余りならぬ、穀物余りが生じており、富裕層はダブついた穀物を王に寄進することで有効投資し、さらに自らの勢力を拡げようとします。こうした経済循環を促す政策の一環として、巨大ピラミッドは建設されたと考えられるのです。
従来、ピラミッドは、王の墳墓と考えられて来ましたが、最近では、それを否定する説もあります。いずれにしても、ピラミッドは宗教的な意味合いを強く持っていました。古代エジプトでは、太陽神ラーが信仰されており、ピラミッドは、太陽神に捧げる巨大なモニュメント、または、太陽に至るための巨大な階段と考えられます。
ピラミッド建設に従事する貧困層の労役は、過酷なものでした。ピラミッド建設に従事した者は、来世を神によって、約束されるという宗教的な信念を持ち、困難な労役にも耐えることができました。
ピラミッドは、王の個人的な墳墓ではなく、人々の信仰の公的な象徴として、認識されていました。そうでなければ、あれ程の巨大で精緻な建造物を、人々が結束して造り出すことはできません。宗教信仰は人や社会を動かす重要なインセンティブでした。
王は人々に、ピラミッド建設によって、物的な食糧と、心的な信仰の2つを与えました。そして、この2つが両輪の輪として、古代エジプトの経済社会の成長を促していくことになります。
②アンコール・ワット ~投資先は寺院
カンボジアのジャングルの奥深くにある世界遺産、アンコール遺跡群にもそうした面があります。
アンコール・ワット寺院を中心に、9~12世紀に建立された大小合わせて数百の寺院の遺跡が残っています。それらの寺院の中に、女神像の浮き彫りなど、ヒンドゥーの神々やその世界観を表した彫刻・壁画が無数に存在します。
アンコール遺跡の神々の像は、昔から、盗掘で国外に持ち去られてしまい、巨額の金で闇取引されています。フランスの文学者アンドレ・マルローも、そのような盗掘者のひとりで、1923年、アンコール遺跡群のひとつ、バンテアイ・スレイ寺院の女神像を持ち去ろうとしたところを逮捕されています。女神像の美しさが、人の理性を失わせるのです。
12世紀前半、アンコール・ワット建設の大プロジェクトを遂行した国王スールヤヴァルマン2世は、約1万人を35年間に渡り、雇い入れました。彼ら従事者とその家族に充分な食糧を提供するため、大水田も開発されます。アンコール遺跡群の周辺には、貯水地や水路など、当時の高度な水理技術をうかがわせる跡が残っています。
豊富な食糧生産は都市人口の増大をもたらし、最盛期には約40万人が王都アンコールで暮らしていた、とされます。
宗教は人々の畏敬の念を集めるために、見る者を圧倒する荘厳な建築物の造営を必要とします。建築が公共事業としての意味を持ち、建設従事者の大量動員などで、農業、産業、商業に到る経済圏の拡大が生じ、経済成長の恩恵が人々に実感されて、宗教は持続可能なものとなります。
アンコール・ワットのような巨大寺院は単なる宗教的な施設というだけでなく、まして王族たちの道楽や贅沢品では決してなく、経済成長を促進するための必要不可欠な起爆剤でした。
成長の波及効果を見込んだ富裕層は、積極的に寺院建設に「投資」(=寄進)します。寄進によって、王朝からさまざまな商業的な利権や土地開発・開墾の認可権を与えられる見返りで、中世カンボジアの「投資」経済が巨額のリターンを求め、縦横に駆け巡っていました。
「投資」は宗教的な一体性のなかで、高い信用により支えられ、また、そのような出資をすることは功徳として捉えられ、人々の信用を生む要因ともなります。アンコール王朝は宗教によって、マクロ経済の絶え間ない循環を生み出すことに成功した典型的な例と言えます。
③紫禁城 ~「教え」が招く失敗
ピラミッドやアンコール遺跡群は、宗教が経済を牽引した成功例として、今日に残っている遺跡ですが、宗教によって、国が崩壊した失敗例として残る遺跡もあります。その代表が北京の紫禁城です。
紫禁城は15世紀以降、約490年間、明、清王朝時代の王宮でした。現在では、「故宮」と呼ばれます。世界五大宮(ヴェルサイユ宮殿、バッキンガム宮殿、ホワイトハウス、クレムリン宮殿)のひとつに数えられます。約72万㎡、東京の皇居の約3.5倍に相当する広大な敷地に、9000近くの部屋があります。
中国では、北極星を「紫微垣(しびえん)」と呼びます。絶対中心・動かざる天を意味する「紫微垣」から、「紫」は皇帝を表す文字となります。皇帝の宮殿を表す「紫宮」と、庶民の立ち入りを禁じた「禁地」を重ねた「紫宮禁地」から、紫禁城と呼ばれるに至ります。紫禁城で、皇帝は絶対権力を行使し、中国全土に指令を発しました。
明、清王朝は儒教を国の宗教として定めました。儒教は、君主と臣下のわきまえるべき分を説く「君臣の別」と呼ばれる考え方を持ち、臣下に絶対的な服従を求めます。この考え方は、中国を中心とする周辺諸国に対し、中国への服従を求める中華思想として強化されていきます。
紫禁城の中央に、太和殿、中和殿、保和殿の三大殿が並び立ちます。太和殿は三大殿の正殿で、歴代皇帝の即位式をはじめとする宮廷の重大な式典を行った場所です。式典が行われる際、太和殿前の広場に官吏たちがずらりと並び、一斉に「三跪九叩頭の礼」を行います。映画『ラストエンペラー』に、幼少の溥儀の即位式の壮麗なシーンがあります。
「三跪九叩頭の礼」とは、臣下が皇帝に対面するとき、3度跪き、そのたびに3回ずつ頭を床につけて拝礼するという儒教的な儀礼です。
18世紀に君臨した乾隆帝は、イギリスから交易を求めてやってきた使節に「三跪九叩頭の礼」を求めます。しかし、イギリスの使節はこれを拒否し、乾隆帝の不興を買います。
イギリスの使節団は、交易品として、ゼンマイ式時計、オルゴール、小型銃、機械人形、機関車模型などを持って来ました。それらは、機械化を国策としているイギリス独自の技術力を示すモノでした。乾隆帝はこれらのモノを見て、「浅はかな工作人の思いつき」と笑ったようです。乾隆帝は、「お前たちの国には貧弱なモノしかない。われわれが欲するモノは何ひとつない」と言って、イギリス人を追い返しました。
当時の乾隆帝をはじめとする中国の支配者層は儒教的な世界観を強く有し、君臣序列の礼を国際関係にも当てはめました。大国の中国は諸外国を従属させ、世界秩序の中心とならなければならないとする中華思想を持っていたのです。
中華思想に取りつかれていた中国の支配者層は、イギリスが発明した銃や産業機械の有用性を正しく理解できず、小ざかしいとさえ考えました。イギリスの科学史家ジョゼフ・ニーダムは大著『中国の科学と文明』の中で、中国人が発明した火薬を、中国人自身が銃や大砲として、実用化できなかったのは、技術革新という新規なものに対する潜在的な不信感があったからだ、と述べています。
儒教的な因習や伝統に固執する中国人にとって、新しいものは伝統基盤を破壊する忌避すべきものと映ったのです。乾隆帝は献上されたイギリス製品の価値を理解できなかったのではなく、理解したくなかったのでしょう。
儒教的な中華思想が、中国の変革へのチャンスを奪い、衰退への道を決定的にし、その後、欧米列強に支配される原因となります。紫禁城の奥深くに住み、「紫微垣(動かぬ天)」と崇められた皇帝は儒教秩序に固執し、世界の鄒勢を見極めることができなかったのです。