21年間の森ビル中国事業で感じた中国ビジネスの本質
ダイヤモンド・オンライン
姫田小夏
4 時間前
28.01.15.
21年間にわたり中国事業に携わった人物がいる。森ビル株式会社OBの吉村明郎氏は、1990年代に大連と上海での2つのオフィスビルと、上海での「世界一」の高層ビル開発で陣頭指揮をふるった。日本企業には快適な事業環境を提供する一方、中国市場ではオフィスのスタンダードを確立した森ビル、その中国ビジネスに一貫して対峙した吉村氏の足跡と闘いを振り返る。
――森ビルの中国事業は1993年にスタートしました、ちょうど南巡講和の翌年に当たります。1989年の天安門事件で外資企業は後退したわけですが、なぜ森ビルは流れに逆行したのでしょうか。
1992年に日本はバブルが崩壊し、日本国内に閉塞感が漂う一方で「これからはアジアの時代だ」というムードが強まりました。そこで1993年、森稔前社長と一緒にアジアの諸都市を見て回ったんですが、中国には他の国にはない郷愁を感じました。大連は30年前の日本、上海は20年前の日本だなと。
中国は天安門事件後、外資企業の後退が続きました。世界は中国に背を向け、中国の対外開放も一切が凍結してしまったのです。しかし、1992年の鄧小平氏が行った南巡講話と今上天皇陛下の訪中で、これは好機かも知れないと見たわけです。森前社長の「中国で青春時代をもう一度」という強い気持ちもありました。
森ビルは新橋、虎の門、赤坂、六本木界隈に集中してナンバービルを建て「港区の大家」とまで言われたドメスティックな企業でもありましたが、三井、三菱、住友などの財閥系デベロッパーに先駆けて中国に進出を検討するに至ったのです。
――トップダウンの強さは非上場企業ならではですね。ではなぜ大連を選んだのですか。
大連との縁は1993年にさかのぼります。第11森ビルに大連市駐日本経済貿易事務所が入って来たのですが、当時の薄熙来市長が森前社長に面会に来て「ついては森ビルも大連に進出してほしい」との要請がありました。社交辞令ともいえるこの話がきっかけで、大連進出検討を開始したのです。
当時、大連には日中合弁の「大連工業団地」があり、市内を含めて約200社の日系企業が進出していました。オフィスビルもあるにはありましたが、ロビーなど共用部は真っ暗で、フロアもゴミだらけでした。ビルとしての設備もビル管理の概念などもなかったのです。現地の日系企業はやむを得ず、ホテルをオフィス替わりに使っていました。そんな状況でしたから、市場調査よりも先に「建ててくれるならすぐにでも入りたい」という日系企業の声に押されました。“日系企業への快適な事業環提の提供』『中国でオフィスビルのスタンダードの構築”、それが私たちの新たな目標になったのです。
――こうした経緯で生まれたのが「大連森茂大厦」(以下、大連森茂ビル)ですね。けれども吉村さんの中国初出張は1993年のこと。翌1994年9月に着工とは大変スピーディな展開ですね。
10月の出張以降、立地選定に入ったのですが、大連市からは「どこでも好きなところを」とまで言われ、目抜き通りの人民路にある大連理工大学女子寮の跡地を選びました。その後、独資法人を設立し営業許可を取得し、土地を購入し、ビルの設計を行い、建築の許認可を取得しました。これをたった8ヵ月間で切り抜けました。日本でなら最短でも2年近い歳月がかかるでしょう。1993年の秋に出張してから翌年の9月には着工……私も今までに経験したこともない、驚異的なスピードでしたね。
――中国では何事においてもスピード重視ですが、物件は問題なかったのでしょうか。
ええ。中国のスピードについては、十部検討しないで突っ走るというマイナスイメージもありますが、“いかにも拙速”と感じたことはありません。私は“中国スピード”については前向きに評価しています。むしろ日本の方が逆に遅いのではないでしょうか。
私たちは、独資という経営形態で主導権を握ることで、“中国スピード”をうまく取り込み、中国におけるグローバルスタンダードなビル造りを目指したのです。結果として、大連森茂ビルは当時、世界最先端のオフィスビルとして竣工しました。
“中国スピード”を裏返せば、コンセプトを収斂させる時間がない、とも言えるでしょう。逆に私たちは東京・港区のアークヒルズ(*注1)の開発では、開発エリアの状況変化もあり、500回以上も設計図を描き直しました。反対に中国にはそれがない。ドッグイヤー中国ならではのジレンマですかね。上海ではこのスピード感が大連以上だったのでびっくりしました。(*筆者注1:1983年着工~86年竣工の赤坂・六本木地区再開発物件)
9.11事件で持ち上がった高層ビルの安全性への疑問
――「上海環球金融中心」(上海ワールドファイナンシャルセンター、以下SWFC)は「日本企業の真骨頂」を象徴する建築物となりましたが、その一方でさまざまなエピソードも生まれたと聞きます。
そもそも森ビルが上海進出を検討したのは、元上海市長だった汪道涵氏から趙啓正副市長(*注2)を紹介されたのがきっかけでした。(*筆者注2:当時の浦東新区管理委員会主任。その後、中国国務院新聞弁公室主任(大臣級)や政治協商会議外事委員会主任などを歴任する)
当時、上海で積極的に不動産開発をしていたのは香港系と台湾系企業だっただけに、日本のデベロッパーの出現は歓迎されました。趙啓正主任と森前社長はすぐに意気投合、日夜都市開発議論を繰り返しました。そして「小陸家嘴地区(*注3)を国際金融センターにしよう」という結論に至ったのです。(*筆者注3:現在の「金茂大厦(金茂タワー)」、「SWFC」、「上海中心(上海センター)」などを含む、1.7km2のエリア)
当初、森ビルの銀行団はSWFC開発に消極的でしたが、国家プロジェクトとすべく当時のOECF(海外経済協力基金)を巻き込み、銀行・生損保・商社など37社のコンソーシアムを組成しました。しかし、1997年7月、アジア通貨危機が起こりました。1997年に着工し1998年には80mの杭を2000本打ち込むという杭工事を完了させたものの、市況は一時的に供給過剰に陥りました。「これだけの規模のものをこのまま進行させるのはまずい」と上海市と協議、プロジェクトをいったん中断しました。
その一方で、2001年に、ニューヨークの世界貿易センタービルがテロにより破壊される事件が起きます。9.11のあの事件で、世界中が「摩天楼は終焉した」という認識に切り替わりました。私たちは「超高層ビルは安全なのか」という根本的な問題にぶち当たってしまったわけです。SWFCを継続するのかどうするのか。私たちは頭を抱えました。しかし、2週間後に森前社長が出した結論は「やっぱりやろう、さらに安全なものを作ればいいじゃないか」というものでした。私もこれで吹っ切れました。
――一方で森ビルは「世界一」にこだわりました。
工事を中断した際、「これからどうする?」となったのです。見えない不安がありましたね。その間、世界中の金融センターを見て回ったのですが、グローバルスタンダードがどんどん変化していることに気づきました。そこでディーリングルームを取り込むなど、用途構成や階高などを見直したのですが、当初設計した460mのビル高が500mに近いものになってしまいました。もともと上海の都市計画では、ビル高は金茂タワーが420m、上海センターが440m、SWFCが370mと決められていたのを、SWFCの設計許認可の段階で460mを認めてもらった経緯があるのですが、さらに高くなってしまったわけです。その一方で、米建築家でSWFCの設計者ポール・カッツ氏に東京で会ったとき「新鴻基(*注4)が490mのビルを計画している」と聞かされました。(*筆者注4:サンフンカイ、香港系の大手デベロッパー)
「世界一を目指すなら、少なくとも490mを超えないとだめだ」ということになり、当時の陳良宇上海市長や胡○浦東新区区長(○=火+韋)に掛け合いました。そこで認められたのは492mです。500mはさすがに無理でしたが、その後この最終の高さは森ビルにとって“最高機密”となりました(笑)。
そんなわけで、SWFCは完成した時点で世界一の高さになりました。今ではSWFCより高いビルが数棟誕生しています。
リーマンショックで苦戦するも現在ではドル箱的な収益源に
――吉村さんは当時、上海市の書記だった習近平氏にも会われたとか。
2007年8月に、上海市の西郊賓館で森前社長が習近平氏と会見しました。私も同行しましたが、習近平氏は身体が大きくオーラがありましたね。習近平氏は6ヵ月間上海市の書記を務めると、その後は中央に上がりました。その時期は中国共産主義青年団と太子党が拮抗していましたから、彼が国家主席となり、今に見る強い政治姿勢をとるようになるとは想像もしませんでした。
実はこの会見直後、建築中のSWFCがボヤを起こす騒ぎがありました。エレベーターシャフト内の溶接工事の火花が、シャフト内の竹の足場に燃え移ったのです。このときはさすがに生きた心地がしませんでした。しかしその翌月には何とか上棟式にこぎつけました。最大の危機の一つでしたね。
SWFCがグランドオープンしたのは2008年10月でしたが、この時もリーマンショックの影響で、営業面は苦戦を強いられました。「上海森茂大厦」(以下、上海森茂ビル)竣工の時もアジア通貨危機とバッティングして苦労しました。
――紆余曲折の中国事業、日本からも「無謀」といわれた事業でしたが、今では森ビルにとってドル箱になっていると聞きます。
ドル箱と言うのは言い過ぎですが、森ビルの収益の中で一定の役割を果たしていることは事実だと思います。SWFCはA級オフィスよりさらに上の「プレミアムグレードA」をつける最高級のオフィスであり、上海の浦東ではまだ8棟しかありません。これら8棟の2015第3四半期における空室率は1.6%、すなわち事実上のフル稼働です。非常に好調な稼働率で、特に日系や欧米系のみならず中国企業の入居も増えています。つくづく本物を作っておいてよかったと思います。
ちなみに現在の募集賃料は1平米月当たり800元(現在1元=約18円)。これは現在の為替で換算すれば、月坪当たり約4.8万円に相当しますから、“いい値段”ですね。銀行など金融関係、法律事務所や会計事務所などがメインの顧客層となっています。
――ところで、日本と中国のやり方の違いに腐心したご経験はありますか?
トラブル発生時の対処の違いには面食らいました。日本のゼネコンの場合だと工事中に問題が起きても、すぐに解決案を持ってきます。例えば「工期は短縮できるが金がかかる」とか「金は圧縮できるが別の許認可がいる」など、複数の提案ができるのです。ところが、中国側は時間をかけて“できない理由”を10個ぐらい持ってくるのです。「~だから出来ない」「~だから出来ない」と、よくまあ考えてくるものだと感心する一方、机の一つも叩かないと話が先に進まないのです(笑)。
山崎豊子さんの著作『大地の子』、主人公の父・松本耕次の苦労には共感しました。納入した製品に錆があることを中方が問題にするシーンがありましたが、そんなことは本質的な問題ではありません。私たちも中方の見当違いの対応には参りました。
中国ではもともと鉄筋コンクリート造(RC造)が主流で、鉄骨鉄筋コンクリート造(SRC造)は、恐らく大連森茂ビルが最初の例だと思います。中国はそもそも躯体工事には慣れているのですが、設備工事は不慣れだし、設備の部材も輸入品に頼らざるを得ませんでした。
また、相番(あいばん)工事の経験がないというのも中国の特徴です。日本では通常同じ部位(場所)で、電気、空調、給排水工事などを調整しながら「同時施工」、あるいは「順次施工」をします。効率よく工事を進めるために、詳細な施工図を描たり、ゼネコンが施工全体の段取り調整をします。しかし、中国ではこのような進め方は一般的にしません。一棟単位で躯体工事が終わったら外装工事、外装工事が終わったら設備工事、設備工事が終わったら内装工事、と全て「順次施工」で行います。SWFCでは、工期短縮のため、当然相番工事をしましたが、中国のメインコンストラクター(*注5)が段取り調整に慣れていないため、えらい苦労をしました。「段取り7分」とはよく言ったものです。ちなみに、そのメインコンストラクターを指揮するために、森ビルは約100人のコンストラクションマネジメント部隊を組成しました。(*筆者注5:中国建築工程総公司と上海建工(集団)総公司連合体)
これが仇になっているのが、SWFCに隣接する上海センターではないでしょうか。2014年に上棟を行ったものの、いまだ竣工に至っていません。SWFCがそうだったように上棟が終われば大抵1年位で竣工するのですが、上海センターについてはいつ竣工するのか聞こえてきません。おそらくこの「段取り」が災いしているのかもしれません。
中国経済の回復には時間はかかるが中長期での悲観はない
――中国の不動産市場に詳しい吉村さんですが、住宅の過剰問題に関してはどうご覧になりますか。
住宅について言えば、都市部には旺盛な需要がありますが、価格帯の合わない住宅を作りすきましたね。需給のミスマッチです。一方で、中国人特有の“勘違い”もあります。SWFCが完成した際、「うちの街でもSWFCを作って欲しい」と地方政府からオファーが多数舞い込みました。彼らは、SWFCの完成を見て、「SWFCを作れば金融センターができる」と勘違いしたようです。
地方では計画経済の名残があります。街造りのため“住宅建設2000戸”という“目標”を掲げて、その数字に到達すれば“成功”だというわけです。それが売れるかどうかは、また別の問題。ここでも、需給のミスマッチがあります。
市況の回復は短期的には難しいでしょう、しかし中・長期的には悲観はしていません。ましてやハードランディングがあるとも思っていません。今後、中国経済は第三次産業が主役になるはずです。もちろん、質的変換は必要でしょうが、金融やサービス業、不動産は中国でまだまだ伸びしろがあります。
森ビルは当面、中国でオフィスビルを開発する予定はないと聞いていますが、コンサル事業を通して、中国側の事業に協力していくことになるでしょう。
――中国経済の見通しが不透明な中で、経営判断に迷う企業も少なくありません。メッセージをお願いします。
中国の歴史史観、国民性、生活習慣などはみな違います。日本と同じ物差しでは対応できません。また、日本流儀を貫きすぎても失敗します。そして、迷ったときは「自分の信じた道を行くしかない」、この一言に尽きると思いますね。
――どうもありがとうございました。
■森ビルの中国事業創業は1959年。東京・港区の新橋・虎ノ門・赤坂・六本木界隈で、ナンバーのついたオフィスビル開発を行う地元密着型の中堅デベロッパーとして知られていたが、1986年竣工の『アークヒルズ』の成功により、一躍脚光を浴びる。現在は都心を中心に、六本木や虎ノ門など『ヒルズ』ブランドの大型複合施設を開発・運営する大手デベロッパーに成長。同社の中国事業は、日本のバブル経済崩壊後に一大転換を図り、海外事業に乗り出したことがきっかけ。大連市の中心地における「大連森茂大厦」(1994年着工・1996年竣工)の開発に続き、陸家嘴金融貿易中心区では「上海森茂国際大厦」(1995年着工・1997年竣工)を開発した。「上海森茂国際大厦」の竣工時はアジア通貨危機に見舞われ、また、「上海環球金融中心(上海ワールドファイナンシャルセンター)」(1997年着工・2008年竣工)は着工直後、アジア通貨危機の影響で途中5年間の工事中断を余儀なくされた。竣工時はリーマンショックと重なり、営業面で苦戦するが、現在はいずれもフル稼働率を維持している。また「上海森茂国際大厦」については、2000年、HSBC(香港上海銀行)に対し入居床を譲渡したが、同時にビル名称権も譲渡、「HSBCタワー」に名称変更した。2010年からは、系列の恒生銀行(Hang Seng Bank)が入居し、「恒生銀行大厦」となった。